Scrapdiary

DesigningとEngineeringの架け橋

Twitterにみる自己拡張もしくは没自己化

正直に言うと最初は何が面白いのか、なぜ流行っているのかがまったく分からなかった。内部のムーブメントを眺めならがTwitterを眺めている自分に、もやもやしていた感覚に言葉に与えてくれた。

当初は自分が「情報」を流すことにこだわっていた。
つまり、情報発信元になること。
しかし、「記述する」「記録する」「それを共有する」ってのはそれだけで力があることだと実感。
別に`ワタシ`が情報生み出さなくてもよい。

おこがましいかな、自分も「情報源になること」を意識してしまうことが多かった。でもTwitterという空間では必ずしも「確固たる情報源としての自分」ことは求められないのかもしれない。これは自分にとって一種の福音だった。

集合知というものを概念として知っていても、実際はどうかとかわからなかった。
「記憶の拡張」も「身体の拡張」も概念はわかるが、実感できない。
でも、今であればよくわかる。
「記述しつづけ、記録しつづけ、共有しつづけ」ることで拡張する。
それは、過去から未来にわたって蓄積し、過去の自分と現在の自分が相対する瞬間さえ訪れる。

エントリ内で指摘されている通り、自分もフォローが100人を越えた(SNS化)辺りから「どこどこでイベントをやる予定」、「こんな凄いことがあったよ」等など、普段の自分の生活のアンテナからは得られない情報がタイムライン上に怒涛のように流れてくるようになった。これは驚きだった。自分の意識・身体が拡張されたような感覚に襲われたからだ。ただ既存の掲示板やSNSと違い、情報がカテゴライズされず、PullではなくPushで届くという点がポイントだったと思う。これがリアルタイムで生み出させる事で「うねり」みたいなものを生み出しているのかと感じた。
また自己拡張ともに、情報の複製・変容とその流れに飲み込まれていくによって、自分というものがなくなっていくような感覚もあったりする。集合知に属することで、自己を失い、総意となる。


集合知という名の情報ストリーム = Twitter


これが今の自分ができうるTwitterへの定義かな。